2009年5月 みのわあつおさんが逝ってしまった
自分のことを書く。自分のためだけに自分のことだけを書く。
1980年代前半、就活の頃、ファスビンダーやヘルッツォークやヴェンダースの映画を見た。そして「ヴェロニカ・フォスのあこがれ」と「フィッツカラルド」と「ことの次第」を配給した映画会社に就職した。就職したその年、その会社は倒産した。
その親会社(映画会社)に移籍した。貿易事務をやった。ニュージャーマンシネマを配給するような仕事とは縁遠く、なじまなかった。つらかった。
学生時代から愛読していたシティロードという東京の映画・音楽・演劇・美術の情報誌の編集後記を読む度に、その楽しそうな雰囲気に憧れた。
個性あるメンバーばかりの中で、映画担当の「箕輪」という名前を覚えていたかどうかはわからない。
覚えているのは「箕輪君が、この度、編集部を辞めることになった」という編集長の後記だった。「卒業」という表現だったかもしれない。そして次の号に「編集部を卒業した人は、その後どうなるんですか?」という読者の手紙が掲載された記憶もある。
変わらず仕事になじめない中、ロスの映画見本市=アメリカン・フィルム・マーケットに出張。時はビデオの勃興期。新旧問わずホラー映画を探して来いという命を受ける。ホラーに興味はなかったが、デイヴィッド・ブライスというニュージーランドの27歳の新人が撮った「DEATH WARMED UP」という映画に魅了された。映画ファンが、ついに自分の映画を作るに至った処女作の美学に満ちていたのだ(正確には処女作であったかどうか)。
英語はわからないが原語にあるに違いない、おかしな、きっとちぐはぐな台詞のニュアンスを上手く字幕に取り入れ、バランスのとれた趣味のいい「おふざけ」のエッセンスを日本版で表現することが出来たなら、伝説のレイトショー映画になると妄想した。
しかし、この作品の貿易事務をやったところで、僕の仕事は終了。公開までのすべては営業部と宣伝会社の元へと移行した。宣伝会社はこの映画に「いかにしてマイケルはドクター・ハウエルと改造人間軍団に頭蓋骨病院で戦いを挑んだか」(略称 マイドク)というタイトルを付けた。ニュアンスをわかっていると思ったが、寂しさが胸をよぎった。
会社を辞め、当時LDと並ぶビデオディスク=VHDの販促媒体を作る編集プロダクションに転職。ここのチーフはジョージ・A・ロメロ・マニアだった。僕が「マイドク」買い付けに奔走したことを知ると「なんで、あんな映画を買おうと思った? 俺なら絶対やらないけどな」と言った。
その会社の購読誌に「宝島」があった。文芸誌を薄くしたような小さなサイズ。映画評に「マイドク」を発見した。細部は覚えていないが絶賛。きっと鬼才の処女作として認めた批評だったように思う。この書き手には、僕の想いが伝わっている。
この編集プロダクションを出て、別なプロダクションに移ったのは、ひとつには、プロの映画評論家に原稿をお願いしたいという欲求があったからだ。出勤した当日の仕事が、山田宏一さんと宇田川幸洋さんが、妖艶な女優の映画史のビデオを見ながら対談するのに立会い、記事を作るというもの。うん、これだ。
望みどおり、憧れの映画評論家諸氏と次々と仕事をすることになるのだが、入社すぐに紹介されたひとりに「箕輪篤男」氏がいた。
名前に覚えがあったかは定かでないが、元シティロードと聞いた瞬間に、あの編集後記が甦った。
その姿、佇まいだけで「いい人」であることが空気となって伝わってくる。腰が低く繊細であり、しかしサービス精神旺盛で笑わせ、僕らスタッフは全員、箕輪さんが大好きになった。
僕が初めて担当したインタビュー記事は「録画マニアの箕輪篤男さん、語る」。
ヲタクという言葉もなかったのではないか?
友人たちとハワイに旅行して、初めてアメリカのTVを見て魅了され、海よりも部屋にこもったというエピソードをひとつのてらいもなく誇らしげに語ってくれた。
映画、音楽、バラエティ、スポーツといったアメリカのポップカルチャーを愛し、後年「サタデーナイトライブ」の全放映をコレクションし、それどころかライブを観客席で実際に見た日本人となるのだが、当時は「夕やけニャンニャン」の全放映もコレクションしていた。
いつだったか? 「マイドク」という映画の買い付けをやったんですよと伝えると「ああ、あれは面白かったよねえ」と言ってくれた。「よかったから、俺、宝島で絶賛したもん」
80年代、ずいぶん飲みをご一緒したと思う。そして僕は平成元年にシティロードの編集部員となった。
もう箕輪篤男から「みのわあつお」になっていたのかもしれない。とにかくこれで みのわさんとはライターと編集者の関係に加えて先輩・後輩の間柄となった。
ビデオの担当だった僕は、「みのわあつおのレンタル指南役」というコラムも作った。
みのわさんは、年に何回かハワイに出向き、新作や、日本に来ないコメディを見るようになる。海外にいろんなツテを持ち、さまざまな文献、ビデオ、そしてグッズを収集。ポップカルチャー評論家としてのプロフェッショナルな地位を確立していく。
ハワイのお土産をもらったことがあった。悪魔の毒々モンスターの顔がフタになっている腕時計であった。
その後、シティロードは休刊。僕はみのわさんと出会った件の編集プロダクションの社長の紹介で「シュシュ」という女性情報誌の編集部員となった。シュシュの映画欄にはみのわさんもレギュラーで参加。直接の仕事はそのプロダクションが担当したので、僕はみのわさんとの実務がなくなったが、それでも、シュシュ編集部員、プロダクションの担当、映画ライターが集っての朝までの楽しい飲み会は覚えている。
シュシュを異動となった僕は、ここから映画記事編集の仕事とブランクが出来る。
そして1999年に、フリーの編集者として一冊まるごと「オースティン・パワーズ:デラックス」のムック編集に参加することになり、メインライターをお願いすべくみのわさんに再会する。
これがさまざまな事象が発生し、この本を制作したプロダクションの社長をして「あれほどの危機はなかったし、あの後もない」と言わしめるタイヘンな仕事となった。
1週間で1冊のムック=映画とレコードの大規模なレビューカタログあり、対談あり、エッセイあり、評論あり、海外電話インタビューあり を作ったのである。あれほどのナチュラルハイになったことはない。
何年かぶりに会ったみのわさんは、盛夏、白いタンクトップに白い単パンだったか、変わらずタダモノならぬユニークな格好で、しかし、口調にぐっと貫禄が出ていた。このムックでやりたい企画をいろいろ話してくれたが、その知識は、物知りな映画マニアの比ではなく、アメリカに暮らしているのではないかと思うほどのプロフェッショナルな面白さに満ちていた。
(それが僕がみのわさんに会った最後になろうとは……)
しかし、このとき、もともと感じられた繊細さが強く増し、シッチャカメッチャカな仕事ではあったが、みのわさんはイラつく感じをまったく隠さなかった。「そんなんなら辞めた!」と電話をガチャンと切られた瞬間もある。かつての温厚なみのわさんなら考えられない気難しさを感じることとなった。
結局最後まで付き合っていただき「オースティン・パワーズ・:デラックス」のムックは完成。
その後すぐ、僕はDVDの新作情報誌の編集部に席を置く。
かつて、録画マニアとして取材させてもらったみのわさんは、今や立派なホームシアターを所有し、オーディオビジュアルの専門誌にも寄稿していた。
スケボーなどポップカルチャーな映画の解説のほか、スピーカーの音が回る臨場感をこよなく愛するみのわさんにDVD視聴、特に「ブラック・ホークダウン」などの音響の魅力を書いてもらった。
「オースティン・パワーズ:デラックス」のムックのときに感じた、みのわさんの気難しい印象を払拭したく、以前のように楽しくくだらないことをくっちゃべりながら仕事することを夢見た僕であったが、それは、電話でもメールでもついぞ果たされなかった。
そんな中、一度、ビデオ会社の女性を伴ってタイ料理に行こうと誘われたことがある。僕はパートナーであり女房でもある「れがあるU」を同席させたいと思った。みのわさんに女房を紹介したいという気持ちもあったが、なにより「れがあるU」はモンティパイソンとサタデーナイトライブのBOXを買うような奴だからである。ダブルデートみたいだし楽しそう。
それは果たされず終わった。なぜ果たされなかったのかは思い出せない。
ひとつにはこのDVD雑誌の会社の支払いが悪く、みのわさんから「この支払い情況では、これ以上依頼を受けられません。改善したらまたお付き合いしましょう」という絶縁のメールを受け取ったせいだったかもしれない。
その後は、キネマ旬報やホームシアターの雑誌で、みのわさんの健筆を目にし続けた。アメコミやコメディとなると、もう独壇場。みのわさんが紹介文を書いた「最凶女装計画」(&「赤ちゃん計画」)など れがあるUとDVDで見て笑い転げた。
みのわさんがガンになり手術で声帯を失ったと聞いたのは轟夕起夫さんからだった。
メールマガジン「試写室だより 封切はこれからだ!」を発行したとき、DVD雑誌のときに(僕個人ではなく会社とはいえ)絶縁されたのだから、原稿料のないアンケート企画に、みのわさんの参加はないだろうと諦めていた。しかし、みのわさんは回答をくれた。
Movie Walker「試写室ランキング」になったとき
回答をくれた。
「月刊 シネマグランプリ」になったとき
回答をくれた。
メルマガをやって以来、最期までみのわあつおさんは、毎月の推薦作と、そのコメントを送ってくれた。(最後の回答は6月公開の「ザ・スピリット」)
メルマガももう何年になるか。毎月、メールでやりとりしたが、ついに80年代の気軽な楽しさは取り戻せなかった。変わらず気難しく、叱責されたことも一度ではない。
タイ料理に行きたかった。行っていろんな話をしたかった。
声帯を無くされてからはお電話も控えてしまったが、思い出話ほか、いろいろな話をしたかった。
もうメールマガジンを始めていたのか、それとも絶縁していた頃だったか、
オーディオビジュアルの雑誌に、DVD-BOX「テネシー・ウィリアムズ フィルムコレクション」の みのわさんによる紹介文が掲載された。
収録作品は「欲望という名の電車」「イグアナの夜」「ローマの哀愁」「渇いた太陽」「テネシー・ウィリアムズ・サウス」。
限られた字数で、全作品を過不足なく面白そうに解説した見事な文章に「よかったです」とメールで感想を送ったことがある。
「ありがとう。この原稿苦労したんですよ」という返信が届いた。
以前のみのわさんと対話しているような気がした。会いたいと思った。
ご冥福をお祈りいたします。
れがあるF
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